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がんばれ映像翻訳者! アーカイブ

      

アンドロイドは機械翻訳で夢を見るか?

コンピュータ翻訳(機械翻訳)が注目を浴びている。あなたはこのトレンドをどうとらえるだろう?「翻訳者の仕事が失われるのではないか」と危惧する声も少なくない。ほんとうにそうだろうか?

私は「翻訳者が翻訳者たる存在感を示す好機だ」と考えている。

まず事実を確認しておきたい。今年ベストセラーとなった『2050年の世界 ~英「エコノミスト」誌は予測する~』の中に、翻訳の今後を扱った項目がある。「言語と文化の未来」と題された著者の分析を要約すると次の通りだ。

・コンピュータを使った翻訳技術はさらなる進化を遂げる。しかし、「言語を理解させて翻訳する」という方法ではなく、「人間が翻訳した訳文を大量にかき集めて原文に一致させる、統計学を駆使した方法」が主流であり続ける。

・言語学者ニコラス・オスラーは「コンピューターが人間の脳のように言葉を理解できるようになるには長い時間を要する。ましてや迅速かつ正確に翻訳するには、さらに長い時間が必要になる」と述べている。

・こうしたことから、あと40年かけても優秀なプロレベルの翻訳をコンピュータが行うのは難しいだろう。

誤解を恐れず一言で言えば「機械翻訳が単純な言語マッチングの域を超えることはなく、人間の言葉を人間自身の理解と創造性をもって変換するニーズは失われない」ということだ。

その通りだと思う。私は最近、講演やセミナーなどに呼ばれるとこんな話をしている。「Good morningを日本語にする作業は誰でもできるしやっている、もちろん翻訳ソフトでもできる。でも、プロの翻訳者が『おはようございます』と訳したらそれは'仕事'となる。つまり、報酬を求めるに値する」。

しかし、もしその訳者が「Good morning=おはようございますでしょ」などと片づけてしまうような人なら、それはプロの翻訳者ではない。機械と同じだ。「おはよう!/お早うございます/おっは~!out(訳さない)/グッド・モーニング/ぐっどもーにんぐぅ/(前後の流から)もう起きたのか/お目覚めか/遅いね......そんな無限の候補から根拠をもって最適な訳語を導き出すのがプロの翻訳者だ。

ここまで書いていたら、修了生で映像翻訳者の扇原篤子さんがとても面白い事例をSNSで挙げて下さっていたので紹介したい。絵本の金字塔『百万回生きたねこ』の英訳版が2013年に出版されるのだが、その翻訳者の作業に関するエピソードだ。

訳者はタイトルの英訳にあたり、「1万回死んだねこ」ではダメなのか?と悩んだという。英語の語感なのか、インパクトなのか、それとも内容の解釈からか、それはわからないが、とにかくそんなふうにしばらくの間悩んだというのだ。結局『The cat that lived a million times』に落ち着いたという。そのまんまだ(笑)。しかし、その結論に至るプロセスには人間臭が充満している。プロだ。

素晴らしき哉、翻訳者――社会にそう認めさせ続けるために今、私たちは何を習得すべきか? 機械翻訳ができない、やらないことを考えれば自ずと答えは見えてくる。社会はヒト。アンドロイドではない。

この冬休み、そんなことを頭の片隅に置きながら1冊の本、1本の映画やテレビ番組と向き合ってみてはどうだろう。(了)

      

ワタシの3月11日

震災から1年が過ぎようとしている。

当校は震災の翌日、「日常性の確保」を会社の方針として内外に打ち出した。震える
ような光景を映し出すテレビの画面を見守りながら、一晩考え抜いたうえでの判断
だった。その結果、講義を休講としたのは翌12日のみで、13日からは予定通りの講義
とその他の事業運営を続けた。

交通機関を乗り継いで駆けつけてくれた講師の皆さんが支えだった。誰ひとりとし
て、休みを申し出る先生はいなかった。通常日程に加え、その日時に参加できない受
講生がいることをかんがみ、同内容の講義をその翌週にもう一度行う施策も実行し
た。それを受け入れてくれた講師の皆さん、そして実家の家族等との連絡に不安を抱
えながらも通常業務に努めたスタッフを、心から誇りに思う。

そして何より、そうした時期にも関わらず学びに打ち込んだ受講生の皆さん、それぞ
れの仕事を全うしようと努めていた修了生の皆さんを誇りに思った。ほんの束の間、
ロビーで生まれた笑いの輪や、「こんにちは!」と声をかけ合う時にもらった笑顔に
励まされた。

それから5月の連休明けまでの2ヶ月間は、私の職業人人生のうちでも最も濃密な期間
となった。もちろん、身を切られるような思いで過ごした、という意味で。

思い出話をしているのではない。一生懸命やったことを誉めてもらいたいわけでもな
い。きっと多くの人がそうだったはずだから。

伝えたいのは「それが私の、震災と生きるリアル」であるということだ。

これから数日間は、多くのメディア、特にテレビは様々な特集を組み、あの出来事を
振り返るだろう。社会を俯瞰し、総括することに長けた人たちが、心を揺さぶるよう
な映像やコラム、切り口で、あの出来事の悲惨さと今も苦しむ人々の現状を伝えるだ
ろう。そして、「あの出来事を忘れてはならない。私たちにできることは何かを考え
よう」と呼びかけるだろう。

実は、私はそれに一抹の不安を感じている。メディアの総括が巧みで、瞬間的に私た
ちの心を打てば打つほど、震災は頭の中で、まるで遠い国の悲しい出来事のように整
理され、'他人の不幸'を収める箱に収まっていくようにも思えるからだ。

先の大戦が悲しい出来事で、二度とそれを繰り返してはならないとは誰もが思うだろ
う。でも、先の大戦に自らのリアルを重ねることができない私は、そうは思うが今の
24時間を大戦と共に過ごすことはできない。

皮肉なことに「あの出来事はこうだった。だから忘れてはいけない」と言われれば言
われるほど、その出来事はわかりやすい'かたち'となり、記憶の整理箱の片隅にピ
タリと収まってしまう。思い出せばたいへんだたいへんだと言いながら、基本、他人
事になる。

しかし、あの震災は私のリアルだ。彼の地の出来事としてしまい込むなど、決してで
きないし、してはならないと思う。私は今も苦しむ被災地の方々と、自分のリアルを
媒介としてつながっている。「絆」なんかではない。つながってしまっているのだ。

これから何年経とうとも、あの瞬間を共に過ごした人々とのつながりは、私の行動や
選択を決する要因になり続ける。同じ日本人だからなんていうざっくりとした理由か
らじゃない。ましてや同情や憐みでもない。被災地の復興と行く末は、私の人生のあ
り様、そのものと重なるのだ。

震災から1週間ほどしてからだろうか、スクールに宅配便を集荷する青年がやってき
た。集荷だけでなく、たまに彼の手からスクールに戻される発送物がある。スクール
資料の郵送・宅送を希望された方々に送ったものだが、なんらかの手違いで「住所違
い」が生じ、戻ってくるのだ。「これ、配達できませんでした...」と手渡された発送
物に記された宛先を見て、私は言葉を失った。その住所は津波で街ごとなくなってし
まった状況を連日テレビが映し出していた街のものだった。

この方は助かっただろうか、英語の勉強が好きだったのだろうか、映像翻訳の仕事に
どんな夢を抱いただろうか、それとも資料請求したことも覚えてはいなかっただろう
か......。

私はその資料をデスクの引出しにしまっている。そして、時々眺めながらこの1年を
過ごしてきた。きっとこれからも。

私にとっての3月11日。皆さんはどうだろうか。(了)

      

知を(少しだけ)深める

何かについて「知る」という行為には段階がある。見たことも聞いたこともない状態を「知らない」とすれば、見たり聞いたりして頭の中に何かイメージが残った状態をもって、多くの人はそれを「知った」と認識する。

情報が氾濫している時代だ。知りたいことや知っておいた方がよさそうなことは、パソコンやスマホ、メディアを通じて次から次へと目の前に現れる。その急流に身を任せていれば、自ずと「知っていること」は増えていく・・・。誰もが思い当たることだろう。

ところがそこに落とし穴がある。まずは次の質問に答えてほしい。

「『人間失格』は太宰治の小説ですか?」

「民主党は現政権を担う政党ですか?」

「東京スカイツリーは日本一高い電波塔になる予定ですか?」

答えはいずれも「イエス」である。何を聞くのかと思っただろう。
では、次の質問はどうか。


「『人間失格』は小説なのですね。では小説とは何ですか?」

「そもそも政党って何ですか?」

「電波塔について説明して下さい」


目の前に問われた相手がいると思って何か言葉を発してほしい。それが正確かどうかはさておき、まずは30秒でも説明できれば立派である。もしできないとすれば、その状態の「知」とは何か?誤解を恐れずに言えば、「知っている」というのは錯覚で、実は「何も知らない」に等しい。

日常生活ではどうでもよいことかもしれない。しかし、映像翻訳者をはじめメディアで言葉を商材にする人やそれを目指す人にとっては致命傷になりかねない。

冷静に考えてほしい。「小説とは何か?それは文章の形式を指すのか?フィクションは小説ではないのか?小説の対極にあるものは何か?」などについて何も考えたことがない人が「村上春樹は一流の小説家だ」という文章を読者や視聴者に売る。それは、食材について何の知識もない料理人がその辺の野山で適当に集めた草木を鍋に放り込んでできた料理を売りつけるのと同じである。

だからと言って、へこむことも落ち込むこともない。「知っている」リストを増やすことをこれから楽しんでいこうと考えた人なら、大丈夫だ。恥を忍んで言えば、上の設問はいずれも私が最近になって思い至り、自分なりに調べてようやく「知っていること」に加えたものである。

「小説」に至っては、ある編集者から「次は『実話をもとにした小説』をテーマに書評を書いて下さい」と頼まれ、気軽に引き受けたものの、いざ選書の段階になると「実話って?フィクションって?ノンフィクションって?そもそも小説って何だ?」と思い悩んでしまったのが調べるきっかけとなった。その過程でフィクションとノンフィクションの中間に「ファクション」というジャンルがあり、現代文学におけるファクションの始まりはトルーマン・カポーティの『冷血』であることなど、興味深い知識をたくさん仕入れることができた。

「知っている」の数を増やすのに、早い遅いはなく、焦る必要もない。大切なのは、見過ごさないこと、そして生涯それを楽しみ、続けることだと思う。もし共感できる部分があれば、今すぐ自分の「知ってるけど知らない」を探そう。答え探しに難航したら、ぜひ手伝わせてほしい。(了)

      

「やり直さない」生き方

2011年が終わる。皆さんにとってはどのような年だっただろうか。

人は過去を振り返るとき、まずは失敗したことや間違ったこと、悔いが残ることから考えてしまう傾向がある。きっとそういう仕組みなのだろう。それはそれで変えようがないし、反省する姿勢が美徳であることに間違いはない。しかし、私を含めた多くの人の反省の仕方について、私はこんな疑問と改善提案を抱いている。

より良き今とこれからを築くための反省とは、「胸を痛めてやり直す」ことではない。過去の行いを認めたうえで、「直す(修正する、改善する、活かす)」ことこそが真の反省であり、正しい。

過去は財産だ。お金をいくら積んでも買い取ることができない宝である。過去の経験があるから今があり、未来がある。あの出来事やあの体験は、良いものも悪いものも含めて、その人だけが手にした生きた証でもある。違う言い方をすれば、過去の経験や手にした知識はすべて、今とこれからの自分の振る舞いに宿るべきものだ。それが「大人がさらに成長する」という言葉の意味だと信じている。

それはそうだ、当たり前だよと感じただろうか。でも、私の目には少なからずの人が過去を軽視し、あるいは間違った反省の対象とし、できるだけ忘れてやり直すことが未来を切り開くことにつながると信じているように映る。'リセット感覚'や'自分探し'というような言葉が流行り、社会から肯定的に受け入れられる状況を見るにつけ、(どうして自分の中の過去を、そんなに簡単に切り捨てられるの?)と悲しくなる。

いい例がある。成功者や目的を達成して尊敬を集める人が「成功の秘訣は?」という質問に、「いつの間にか今の位置にたどり着いた」「絶対に諦めなかった」と答えるシーンをよく目にする。

それを私流に翻訳すると、「私は成功も失敗も、善行も悪事も、すべてを自分が生み出したものとして積み上げることをやめなかった。その結果、当初に描いたものとは見た目は異なるが、人に誇れるような今の自分が出来上がった」となる。過去を必要とし、活かし、決してやり直さなかった人たちだけが発する言葉だ。

過去だけの話ではない。今の世の中、「興味や関心事、すべきことがたくさんあって、どれもが中途半端になりがち」という声をよく耳にする。これももったいない話だ。そういう人は、「頭を切り替える」という言葉を美徳と勘違いしているのだろう。1つひとつに割く時間や労力が少なくなれば、より集中して取り組む人を決して上回ることはできない。やることが沢山あるのであれば、打つ手は1つ。1つに取り組んで得た経験や知識は、何としても異なる取組みにも活かす――。これしかない。

経験したこと、見聞きしたことは自然に身体に残るはずだなどと、何の根拠もないことを言う人がいる。残念だがそれは絶対に、ない。過去の経験や知識は、「留めて活かすぞ!」と強く願い、そう努力する人だけに宿るからだ。忘れてやり直すことを美徳と考える人には決して宿らない。

つらい経験や悲しい出来事、人の期待に応えられなかったこと、人を傷つけたこと、怠けたこと、失敗したことを心に留めるなんてゴメンだという人もいるだろう。

それでも捨て去ってはいけない。私なら他人のそんな過去を、できることなら買い取りたいくらいだ。きっと、それが今とこれからの自分の成長の糧となり、自分を強くしてくれると思うからだ。悲しんでいてもしょうがない。それらを活かすことが迷惑をかけた相手に対する唯一の償いになると、自分に都合がいいように考えたい。究極の正しい自己愛、自己中心主義だ。

少なくとも私は(過去を含めた)自分を愛せないような人とは仕事を共にしたくない。何より信用できない。風呂上りのような顔で「今日から新しい自分が始まります!」などと言われたら、気持ち悪くて卒倒してしまうだろう。そのセリフは生まれたばかりの赤ん坊だけに許されたものだ。(赤ちゃんはしゃべれないが) 私たちは力強く過去を抱いて生きる大人として振る舞い、社会に活かされる存在となりたいのだ。

このメッセージを、未曾有の災害を乗り越え、良き職業人としての目標に向かうエールとして受け取ってもらえれば嬉しい。

さぁ、今年一年を恐れずに振り返ろう。そしてその宝の山を来年のさらなる成長に役立てよう。私もそのようにして、決してやり直さず、まだまだ未熟な自分を直していきたいと思う。(了)

      

ポケットに'mission'を忍ばせて

節電の夏がやってきた。

この国がかつて経験したことがない緊急事態に、多くの人が戸惑いながらも様々な工
夫や努力を行っている。

その行動自体はとても美しいと思う。何に対してもこじつけの反論や皮肉の言葉が心
に浮かんでは消える癖がある私でも、「節電しなければ電気が止まる」と言われた
ら、なんとかできないかと思う。

ただ、少しだけ考えたい。節電は目的ではなく手段である。多くの人がその事実を忘
れがちなことが気になる。

日本に暮らす私たちは「道」が大好きだ。「みち」ではなく「どう」と読む。柔道や
剣道、合気道に茶道。そうした伝統あるものとは関係のない営みにも、「道」をつけ
て不思議な何かに仕立て上げる習慣がある。野球道や営業道、パチンコ道に整理整頓
道(断捨離道)、数え上げたらきりがない。

「道」とはプロセスである。その先には目標、つまりゴールが待っているはずだ。散
歩や運動を除けば、道を歩くことそのものを目的にしている人はいないだろう。『ち
い散歩』でさえ、ぶらりと立ち寄るお店や施設にはスタッフが事前に話をつけている
(と、番組で立ち寄られたお店の人から聞きました)。

だが、道半ばにある人の少なからずが、道を歩む行為そのものに美徳や価値をこじつ
けようとし、ゴールテープから目を背ける傾向がある。この国の人々は特にそうだ。
個々の資質の問題ではない。そうした空気がこの社会では支配的なのだ。受験道で力
尽き、せっかく念願の学校に入ったにもかかわらず、その後抜け殻のような日々を過
ごす一部の若者がその典型的な例だろう。

さて、節電の話だ。節電は私たちのゴールではない。節電によって暮らしを守り、本
来あるゴールに達すること。それが、自分のため、社会のため、ひいては次代を担う
子供たちのためになることを忘れてはならない。節電に夢中になりすぎて消耗し、委
縮し、歩みを緩めることなど、私に言わせれば本末転倒、言語道断である。

仕事で責任ある業務を担ったことがある人ならわかるだろう。目的に達するプロセス
には、必ずと言っていいほど予測不能かつ想定外の障壁が現れる。そこで心が折れる
か、言い訳を考え始めるか、あるいは(やっぱりな)とニヤリと笑って突破を試みる
か----。そのパフォーマンスによって、できない人か、できる人かが決まる。

『もしドラ』の大ブームについて、古くからのドラッカー信者の私としては多少の異
論がある。しかし、高校球児が砂をかみ、日々理不尽なしごきに耐え、全国から精鋭
を集めた強豪校に敗北覚悟の戦いを挑んでいくというこの国では当たり前の事象(高
校野球道)に対して、同書は「高校野球の目的はファンや母校を応援する人々を感動
させることだ」という明確な目標を設定し、多くの大人をハッとさせた。それはド
ラッカーの教えの中核であり、秀逸なアイデアだと思った。

ともすれば「道」に没入しただけの青春をすごしがちな若者たちに、「社会的行為
(この場合高校野球)には共通の目標が必要であり、それに向かって一心不乱に歩む
ことこそが美しい」という、その後の長い人生を生き抜くうえで、最も重要な教訓の
1つを同書は諭している。

道に没入しすぎるとmissionを見失う。あるいは、missionを抱きながら歩むことを苦
にし、歩みを止める都合のいい'言い訳'として、道に心身を投じる自分に酔おうと
する。そんな人が少なくない。このように、道そのものを目標にすり替える悪習は、
その人の心の弱さの現れでもある。

歴史上、社会ぐるみでそんな風に振る舞うことで、私たちはどれだけ大きな失敗を繰
り返してきただろう。先の大戦も然り、原発事故も然りだ。

あなたの(私の)、そしてこの社会のゴールは何か。今一度それを確認し直そう。節
電の努力は必要だろう。しかし、それによってポケットからmissionを放り出しては
ならない。「これで身軽になった」と、自分を騙してはならない。一度手放した
missionは、二度とその手には戻らないからだ。

グローバル化は増々加速する一方だ。私たちの目の前に現れたこの程度の障壁に同情
し、待ってくれるほど世界は甘くない。

水平化に向かう世界は、コミュニケーションを担うプロを必要とする。そうなった世
界で活き活きと活動したいと願う人は、この夏こそこれまで以上のエネルギーを注ぎ
込み、自らのmissionに突き進んでほしい。

そのために電気が必要なら思う存分使うといい。少なくとも私は支持する。

なぜなら実りある未来は、そうして育ち、開花した人材を必要としているからであ
る。(了)

      

重力に抗う

地球の重力に心まで引かれた者と解放された者。人間をそんなふうに2つに分けた世界観を『機動戦士ガンダム』シリーズで示したのは、アニメ原作者の富野由悠季だ。未来に起きる壮絶な戦闘は、国や肌の色、貧富や政治思想の差異ではなく、"心のありどころ"の違いが要因で生じるという衝撃的な内容である。

真の同志は表面上の敵軍にいるかもしれないし、自軍の中にほんとうの敵がいるのかもしれない。さらに話を複雑にしているのは、登場人物それぞれが自らの"心のありどころ"について、明確な自覚がないという設定である。

「重力」は人間の負の部分を誘発する。進化を嫌い、未来から目を背け、今がそこそこよければそれでいいと思う心を誘う。地面にへばりつきながらも、もうこれ以上"落ちる"ことはないだろうと考える。足元に地表がなければ、重力に引かれてどこまでも落ちていくということにすら気づかなくなる。

一方、重力から解放された者は、人間はなすがままにしていれば自滅に向かうと気づく。そして空を見上げ、無限に広がる宇宙に次代のありようを見出そうとする。その最も進化した姿を、原作者の富野は「ニュータイプ」と名付けた。日本のアニメーション・クリエーターがもつ想像力と創造力には、ただただ感服するばかりだ。

それは確かにSFの世界の話かもしれない。でも、「重力に心まで引かれた人」と「重力に抗う人」という人間の在り方は、実は富野の目に映った今の社会の実相ではないかと私は見ている。

誤解を恐れずに言えば、私は自分が出会った人やメディアを通じて知った人を2つに分ける習慣がある。空を見上げて手を伸ばしている人と、そうでない人だ。社会的地位や評価はそれなりに意味があるだろう。しかし、その差異は、小さな山の上や高層ビルの最上階に鎮座しているか、運動場で肩車をされているか程度の違いでしかない。問題は、その人が今この瞬間、空を、自分の未来を、より良き世界を見つめて手を伸ばしているか、である。
 
俗に言う「上昇志向」とは似て非なるものだ。人より高い位置に居座ったところで、重力の呪縛から逃れたことにはならない。私が美しいと思い憧れるのは、現状に満足せず、社会に自分が生かされる理想の在り方を常に求めて、重力に抗い、空へと向かおうとしている人の姿だ。そんな人は、高台から世間を見下ろして満足顔をしている人の何倍も輝いて見える。

世直しの話ではない。ビジネスパーソンとして日々活動している誰にとっても関係のある話だ。私たちは日々ままならない出来事の中で、「それなりにやっていれば何とかなる。自分は自分なりに努力している」と自分自身を慰めがちだ。しかし、それはまさに「重力」にズルズルと引かれ始めた瞬間である。

私たちは常に目に見えない「下へ下へ」という力に支配されている。いつものことをいつも通りにやっているつもりでも、現状に止まることすらできない。鳥は羽ばたいているからこそ水平飛行を保つことができるのに、それに気づかず心の中でこうつぶやく。----どうして自分だけ恵まれてないんだろう?

しかし、今の立ち位置(年齢?学歴?肩書き?収入?財産?国籍?人間関係?)などどうでもいいではないか。そんなちっぽけなハンデなど、重力という人間すべてに平等に課せられた足枷に比べれば、取るに足らないものだ。「あなたは、重力に抗うか?身を任せるか?」----まずはこのシンプルな問いかけに、答えを出すことが大切なのだと思う。

私は自他共に認める楽観主義者である。しかしそれには根拠がないわけではない。私の立ち位置などは社会のものさしからすれば地面どころか地下2階の駐車場かもしれない。が、それでもなお、上を見上げれば、スクールで出会った志の高い人たちと歩んでいる未来の自分が、プラネタリウムのように視界に広がる。重力に抗う気力だけは失いたくないし、失わない。

それでも時々、もう重力に身を任せてしまいたいよと下を向きたくなることがある。私を含めてそんなふうに見える人がいたら、「上を向こうよ!」と叱咤してほしい。重力に抗おうと努める者にとって、そんな言葉は心地よい風、上昇気流になるからだ。(了)

      

忙しい人たちへ

映像翻訳の技術の習得や英語力の向上を心に誓ったものの、今の仕事が忙し過ぎてなかなか集中できない...。そんな不安の声を、少なからぬ受講生・修了生から耳にします。

その気持ちはとてもよくわかります。課題に全力を注げなかったり、時間的にどうしても講義に出席できなかったりすると悔しいですし、めげそうになりますよね。私も同じような気持ちになった経験が何度もあります。

でも、「今の職場でよく働いている人や仕事を任されている人ほど独立起業に向いている」という法則があるのも、一つの事実です。

そこで、近い将来、本気で独立を考える人にぜひこんなアドバイスをしたいと思います。

目の前の仕事に専念する日々の中にあっても、「常に新しい職能について考えている、イメージしている」ということを心掛けて下さい。

継続こそ力なのです。それは、本業に支障があるほど強く、大胆である必要もなく、かといって、気晴らしや現実逃避ではなく、頭の一部分ででもいいのでゆっくりと、ロジカルに、自分を信じて、根気強く継続するのがコツです。決して無理をしたり、今の境遇にストレスを感じてはいけません。

そのようにして映像翻訳という職能に向き合い、学校との関わりを保ち続けてくれた修了生がデビューしていく姿を見ると、私はこの仕事を選んでほんとうによかったと思えるのです。

忙しい人、応援します。(了)

※このコラムは、2003年9月の「Tipping Point'Vol.9」に加筆修正を加えたものです。

      

「ピーコのファッション・チェック」に備えてる?


――そう聞かれて「ハイ」と応えるのにはかなり勇気がいりますよね。「自意識過剰だよ」なんて言われて笑われそうで...。でも私の経験上、フリーエージェントの世界でバリバリやている人たちにこう聞くと、「ちょっと急いでるんでって言って、サックリ逃げるね」とか、「ピーコとガチンコ勝負ッ!ケチをつけられたらテレビに向かって「アンタのセンスって最低!」って怒鳴ってやる」とか、即座に愉快な答えが返ってきます。
本気で備えているわけじゃないだろうけど、私もそうなんですが、普段から「もしこんな場面に遭遇したらこうしよう」という風に空想するのが大好きなんだと思います。
もし雑誌の編集者なら「ワタシがもし自分の信念だけで雑誌を創刊するなら...」とか、映像翻訳者であれば「ハリウッドの映画界は、恋愛映画の翻訳ならワタシに全部任せればいいのに...」とか。一つ間違えたら妄想癖のある人(笑)。想像が現実的だろうとなかろうと、少なくとも私はそんな話を聞くと幸せな気分になります。

将来の仕事の可能性を話している時に、「ワタシには縁がないから」、「ワタシの力じゃまだまだ語る資格がなくて...」なんてすぐに言う人がいる。謙遜なのかもしれないけれど、ちょっとがっかりです。「そりゃアンタ、そうかもしれないけどね。自分の未来に対してそんなに無防備でいいの?もし明日にチャンスが訪れたら最善の対応ができるの?そんなことじゃ、ピーコの思うツボだよ!」。

仕事でもスポーツでも、何かの道を極めた人がテレビや雑誌のインタビューに応えて「無我夢中でやっていたら、いつの間にかここまでたどり着いただけです」とか、「私はまだまだです。師の教えに忠実に従ったら上手くいっただけです」なんて発言するのをよく目にします。でもそれ、はっきり言って本音じゃないですよ。本人にはウソをついているという自覚はないのかもしれません。でも周りの人への気遣いを優先したそんな社交辞令は、「あなたが成功したほんとうの理由を知りたいんです!参考にしたいんです!」と願う人にとって、何の役にも立たない。

2004年のアテネ・オリンピックで活躍した日本人選手たちのインタビューを聞きましたか?「絶対にメダルを取る!表彰台に上る!それだけを考えて今日まで頑張ってきた!」。堂々とそう言ってはばからないじゃないですか。自分が至るべき結果をどの選手もが明確に口にし、それをイメージすることからスタートしたと言います。
卓球ではベスト16で敗れた福原愛選手が、記者会見でこう聞かれていました。「この負けは次へのいいステップになりますね」。なんてありがちで意味のない質問...とガッカリしていたその時、あの'泣き虫愛ちゃん'が「そんなきれい事じゃありません!」と声を荒げたのです。。福原愛選手の世界ランキングは当時20位にも達していませんでした。それでも表彰台に上がるぞというイメージを明確に持って試合に臨んでいたんですね。カッコイイです。
日本人選手のメダルラッシュの秘密は、選手たちのそんな意思の力、イメージの力によるところも大きいと思いました。

NHKの番組(2004年現在)「難問解決!ご近所の底力」って知ってますか。「何でそんな番組観てるの?」なんてつっこまれそうですが(笑)。ある日の特集は、「オレオレ詐欺(振り込め詐欺)や悪徳商法に引っかからない法」でした。騙されやすい人は、「まさか自分のところに来るわけがない。来たとしてもワタシは騙されるような人間じゃない」と思い込んでいるんだそうです。今電話がかかってきたら、'受け応えをしている自分のイメージ'が頭の中にまるでないから引っかかる。推奨する対策は、「ほんとうの息子なら、生年月日を言いなさい!」、「そんな商品はいりません。帰って下さい!」など、普段から役者の稽古さながらに、声に出して練習しておくことだそうです。

映像翻訳に関わる人も同じだと思いました。メジャーな作品、憧れの素材、目標としている仕事を横目で眺めながら、「まだまだワタシには縁がないんだ」なんて思っている人がいたら、そんな思考停止そのものが望む仕事を遠ざけ、進歩の足枷になっていることに気づいてほしいのです。映画が大好きな映像翻訳者であれば、「ワタシが監督になって、潤沢な予算を与えてくれたら、こんな映画を創ってやる!」なんて普段から考え、熱く語ってくれるような人が頼もしいですね。
ハードルを高くしたところにあるイメージは、明日の仕事の備えであるとともに、向上心や知識欲を駆り立ててくれます。道を歩いている時でも、就寝前のちょっとした時間でもこなせる'仕事'の一部だと考えてみてはどうでしょうか。勉強中の人はもちろん、すでにプロとして活動している皆さんもぜひ実践して下さい。
まずはピーコへの反撃でも考えておきましょうか(笑)。

      

がんばれ、フリーエージェント!


「一つの企業や団体と長期間に渡る被雇用契約を結ばずに、「スキルに裏打ちされた独立自営の精神」に従って、自らの能力を最大限に活かせる職場を社会に広く求めることができる人材」――フリーエージェントという言葉に対する正確な定義はまだありませんが、アメリカで発表されている最新文献などを参考にした上での私の解釈です。

映像翻訳者になるということは、同時に優秀なフリーエージェントになることが要求されます。企業や団体の構成員とは本質的に異なる職業意識、対応力、生活習慣を身に付ける必要があるのです。
仕事の質や量を年々向上させていくための「スキルアップ」について言えば、大きな組織には教育係がいて、研修があって、日々の会議がある。自ら動かずとも、お膳立てが整っている場合がほとんどです。もし会社からスキルアップを求められないのなら、それは「どうぞ反復作業を繰り返して下さい。あなたには今以上のスキル
は求めません」という意味。一見ラクで効率的なように見えますが、それでは固定の歯車です。錆びついたら新品と交換される運命も覚悟しなければなりません。
一方、私の周りで活き活きと働くフリーエージョントたちは、自ら進んで学ぶことに躊躇がありません。新人のうちはもちろん、ベテランと呼ばれようと、安定収入を得て成功者と讃えられようと、新しい出会い、新しいスキル、新しい価値に常に関心を抱き、それを自分の力にしようとする努力を怠らないのです。

ではここで、あなたの「フリーエージェント指数」をチェックしてみましょう。
【問題】「今の仕事に必要だから、スキルを学んだ」。「新たなスキルを学んだら、仕事がついてきた」。両者の違いを一言で述べなさい。
(【答え】は巻末を読んで下さい)

当校の講師の多くは、翻訳・通訳・執筆業の世界を生き抜いている筋金入りのフリーエージェントです。講義が終了した後に「今日はどうでしたか?」と聞くと、受講生の訳出や鋭い質問、考えさせられた指摘などについて、140分の講義を終えたばかりとは思えないほど、いつまでも熱く語り続けます。受講生の皆さんを指導するのはもちろんのこと、同時に「自分自身のスキルの向上に、受講生との出会いを役立てているんだな」と感心します。
当校の多くの修了生は自主的な勉強会を開いたり、プロになった後も積極的にセミナーや研修会に参加しています。そんな姿を見た受講生の中には、「いつまで勉強を続ければいいの?」と思う人もいるかもしれません。でも、フリーエージェントの本質が「自ら学んで進化し備えること」だと理解できれば、納得のいく姿ではありませんか?
このようにたくましく成長し続けるフリーエージェントの先輩たちが、受講生のすぐ近くに大勢いるのです。

フリーエージェントという生き方への関心は、日本でも年々高まりつつあります。将来的には国や自治体も支援に乗り出すことでしょう。しかし、そんなものを当てにするようではフリーエージェントの名が廃(すた)ります。
私は職業人としての人生の大半がそうであったように、フリーエージェントという生き方が大いに気に入っています。自分が気に入っているから、年齢も性別も性格も背景も超えたところで、この生き方を目指す人を応援したいのです。
がんばれ!フリーエージェント! 

【答え】前者は「仕事は与えられるもの」と考える人の発想。後者は「仕事は自分が創る」と考えるフリーエージェントの発想。 (了)