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映画に学ぶ アーカイブ

      

コトバはヒカリ

2008年1月20日の日曜日、一つの映画祭が催されました。
「CityLights(シティ・ライツ)映画祭」。目の不自由な方々と一緒に映画を鑑賞する映画祭です。

「映画が見たいけれど鑑賞がままならない」という視覚障害者の方々のために、すべてのシーンを音声で解説した原稿を作成し、ナレーターが朗読する----。テレビ番組の副音声でこうした試みが時々なされていることは知っていましたが、映画、それも多くの観客が同居する劇場で、それを実現しようと努力している団体があったことを、恥ずかしながら、私は知りませんでした。

運営にあたっているのは、「いつでも誰でも当たり前に立ち寄れる『バリアフリー映画館』の建設」を目指す団体シティ・ライツと、多くのボランティアの皆さんです。そのなかに、当校の修了生で、現在は編集者・ライターとして活躍されている方がおり、その活動について教えて下さったのです。事後報告になりますが、当校はその活動主旨に賛同し、「第1回 CityLights(シティ・ライツ)映画祭」に協賛することを決めました。協賛といっても、とても小さな第一歩です。実質的に運営の役に立つ規模の応援ではありません。まずは実際の様子を拝見して、今後私たちに何ができるかを考えようと、私は会場に足を運びました。「音声解説の制作には、映像翻訳者の作業に通じ、役立つヒントがある」とも思ったらです。

会場は、多くの人々で賑わっていました。目の不自由な方々もそうでない人も、この映画祭を心から楽しみにしていたことがすぐにわかりました。スタッフやボランティアの方々の誘導や運営管理も整然とスマートにとり行われていて、例えば行き来がしやすいようにゆったりと取られた座席前や通路には、盲導犬がちょこんと座っていたりなど、居心地がよい心配りがなされていました。

上映作品は、いずれも欧州の秀作『ミルコのひかり』と『善き人のためのソナタ』の吹替え版。私はドイツ映画で2007年にアカデミー賞外国語映画賞を受賞した『善き人のためのソナタ』と、幕間に企画されたパネルディスカッション「音声ガイドの舞台裏」を楽しませて頂きました。会場ではFMラジオを貸し出していて、これで周波数を合わせると音声ガイドを聞けるのです。イヤホンを付けな ければ、普通に吹替え版を楽しむことができます。

私は持参した小型ラジオで音声ガイドを聞きながら鑑賞しました。
そして鑑賞後----。私の心に焼きついたのは、「コトバはヒカリ」であるという真実です。

音声ガイドの制作には、実に多くの人が関わっています。まずは原稿を作る人たち。何人ものボランティアの方々が、直接集まって議論を繰り返しながら原稿を仕上げていきます。映像翻訳に関わる、関わったことのある皆さんなら、1本の作品のシーンをコトバで説明するということが、どれほどの繊細さと忍耐力を必要とするか想像がつくと思います。そうしてできた原稿を監修する人がいます。概ね、元の原稿は「情報量が多過ぎる」そうです。監修には実際に目の不自由な方があたることが多いようで、作品の流れを壊さず、それでいて観客に必要な情報や感動を伝えるコトバを適格に残していきます。

パネルディスカッションではひとりの監修者が、「映画は見るためのものであって、コトバですべてを伝えることなんてまず不可能ですよ」と、堂々と語っておられたのが印象的でした。それを言ったら元も子もないし、何より視覚障害者の方々ががっかりするだろうって? 冗談じゃない。事実は事実。映像翻訳の原点だって、そこにあるじゃないですか。私はこの団体で音声ガイドを作る人たちが、それが形態としてはボランティアであれ何であれ、逞しく信頼にたるプロとしての気概に満ちていると感じました。

そしてその原稿を読むナレーター、それらを映像に組み込む作業を行う人・・・。一つひとつの音声ガイドを、字幕やリップシンクの吹き替えと同じように尺を合わせ、フレーム単位で気を配りながら挿入していくのです。これはもう、「もう一つの"映像翻訳"」と呼ぶにふさわしい作業だと感動しました。それぞれ作業は異なっても、関わる人すべてに「映画が大好き!」という思いが共通していることにも胸を打たれました。

外国語がわからない人のための映像翻訳者、視力に障害のある人のための音声ガイド制作者。コトバでヒカリを与えるという共通点をもつ両者は、良き友であり、良きライバルであるべきだと思いました。そして、良きライバルがもっている技術、ハート、ミッションから、我々が学ぶべきことはたくさんあると、心を新たにしました。

同団体やそれを支援する方々とは、少しずつよい関係を築いていければと思っています。また、皆さんのなかに音声ガイドの制作を通じて自分を磨きたいと思う方がいらっしゃれば、ぜひシティ・ライツさんの活動に興味を持って下さい。(了)

※このコラムは2008年1月の「Tipping Point vol.101」に加筆修正を加えたものです。

      

忘れること、肯定すること、許すこと

鑑賞会で観た映画「ノエル」に、かつて自らの身勝手な行動が原因で、イヴの夜に妻を交通事故で亡くした老人が登場します。ニューヨーク市警の若い警官(男)をなぜか妻の生まれ変わりだと思い込んだ彼は、周囲から狂人扱いされます。雪の中に倒れ込んだ老人をしかたなく病院に担ぎ込んだ警官は、老人の息子からはじめて事実を告げられました。
(翻って自分はどうか)――警官は、同じように身勝手な行動によって大切な婚約者を失いかけている自分の姿を重ねます。このままではきっと来年もその次の年も、同じ苦しみを味わうであろう老人を救うことはできないか?自分にできることは何か?警官はベッドに横たわる老人の手をそっと握って、こう言いました。
「私(妻)は、あなたを許します」

皆さんの2005年はどんな年でしたか?私はと言えば、頭を過ぎるのは失敗した自分、怠けた自分、嘘をついた自分、そして思い通りにならなかったあの人、迷惑をかけられた(と思っている)あの人、自分を嫌っている(と思っている)あの人...。ため息とともに「今年は最悪だったよ」という言葉が口から出てきそうになります。

でも、実際のところは「今年はかけがえのない、いい年だった!」と、自信を持って言えます。なぜかというと、心に備わっているある"ろ過装置"を、今、フル稼働させているからです。
記憶など、しょせんはできそこないのこの頭に貼りついた、不確かな情報に過ぎない。大晦日に何を食おうか、姪のお年玉のぽち袋のデザインは何がいいか、同じ時間に3つのチャンネルでやるお笑い特番をどう録画するか、そんな一大事でいっぱいいっぱいの脳細胞に、どうこう騒いでもどうにもならないことを収納するスペースなどもはやない。まかり間違って収納したとしても、あれもやりたいこれもやりたい2006年に、ちまちまと引っ張り出して感傷に浸っているほど暇でもない。

悪い記憶は今年のうちにろ過装置を通してしまいます。第一の機能は「忘れること」。覚えていて得をしたという、恨みつらみや自己嫌悪って、これまでの人生でありましたか? 今年ほんとうに学んだこと、反省し活かすべきことは、意識しなくても頭の適所に収まっているはず。人の体とは、そういう風になっている(と思う)。早いとこ忘れて下さい。
それでも頭を離れない悪い記憶は、第二の機能「肯定すること」で片付けて下さい。私はこれが得意です。信念を持ってやったことは結果が悪くても、肯定する。理屈で考えなくても、大概のことは「おかげで成長した」と思えばいいんです。(自分を否定した憎っくきアイツ、ありがとう。おかげで成長できちゃったよ)って具合に。思い出す度に「ムカッ」、「ズキッ」とするのではなく、相手の顔を思い描いて、心の中で「ありがとう!」と繰り返して下さい。そのうち忘れますから。

それでもなお残る手ごわい相手をどうするか――。もちろん私にもそういう記憶があります。恐らく一生引きずるかもしれないという、心の痛みと恐怖...。癒えない傷として、胸に刻み付けられるかどうかの瀬戸際で、私の中のろ過装置の、最後の機能が動き出します。

「ワタシハ、アナタ(ワタシ)ヲ、ユルシマス」

「ノエル」では警官の一言で、老人は過去の呪縛から解放されました。しかし、警官は神でもなければ、懺悔に耳を傾ける神父ではない。そう、「許します」の一言は、自分自身を救うために向けられた言葉だったのです。

映像作品が持つほんとうの価値を発見し、広く世の中に伝える使命を担った映像翻訳者の心眼は、常に澄んでいなければならないと、私は思います。
皆さんにはぜひそうあってほしいと願っています。すっきりした気持ちで、2006年を過ごして下さい!(了)

      

「 ロード・オブ・ザ・リング」の主人公たちに見る'揺れ'の考察

「ロード・オブ・ザ・リング」が世界中で大ヒットを記録しています。
その理由は様々で、もはや言い尽くされた感もありますが、私なりに思うところを綴ってみました。

まずは「BOX OFFICE」発表の全米興行成績を調べました。2002年2月時点で約3億ドル。既にベスト10からは姿を消していたので、その後の追加を考えてもざっと3億2000万ドルくらいでしょうか。「ハリー・ポッター」が3億1000万ドルですから、ほぼいい勝負といったところ。「タイタニック」の全米6億ドル、全世界9億ドルには遠く及びそうにありませんが、全米3億2000万ドルというのは「フォレスト・ガンプ / 一期一会」、「ライオン・キング」あたりと同じ業績で、歴代6~7位にランキングされます。名実共に大ヒット作です。

この映画のある側面が、特異なほど日本的であることに痛く共感を覚えるとともに、世界中の人々がこの作品を評価したことに正直驚いています。
主人公らの醸し出す「自虐的なヒロイズム」は、これまでのハリウッド作品にありそうでなかったもの。「スター・ウォーズ」や「シュレック」が大好きというアメリカ人には新しく、「宇宙戦艦ヤマト」や「機動戦士ガンダム」の洗礼を受けた日本人には懐かしい。そんな古くて新しいヒーロー像を解読することは、今後のハリウッド大作の方向性を占ううえで、大いに役に立つと思われます。
主人公らは偶然背負った運命を時に呪い、自信を失い、自らの価値を問い続けます。これまで受け入れられてきた「ファンタジー」とは対極にあるような「リアリズム」です。原作の「ホビット」、「指輪物語」に忠実であることがこの映画のウリの一つだと言われていますが、古典的なストーリーに忠実であるだけでは、この21世紀にリアリティは生まれません。
公開時の宣伝の謳い文句は「友情と自己犠牲、サバイバルと勇気」などといったちょっと気恥ずかしいものですが、ほんとうにそれを表現したいだけならば、カルトな作品の制作にしか実績のないピーター・ジャクソンが監督に抜擢された理由の説明がつきません。

監督はおそらく日本のアニメをよーく研究しているのではないか、そう思えてならないのです。全編を通じて描かれる、ヒーローであるはずの主人公たちの心の'揺れ'(不安、自信の無さ、苦悩、消極性)は、日本のアニメ作品「機動戦士ガンダム」シリーズの主人公、アムロ・レイやカミーユ・ビダンのそれに酷似しています。子供たちまでをも視聴者対象にするハリウッド映画の大作で、そのような主人公たちが登場するものは、あまり私の記憶にありません。
なかば無理やりヒーローに仕立て上げられた人間の心の歪みを、底抜けにわかりやすい勧善懲悪劇に投影する手法は、まさに日本のマンガやアニメのお家芸でした。ガンダムにしても、サスケにしても、星飛雄馬にしても、壮大な設定と圧倒的な戦闘シーン(陽)が、常に主人公の自虐的ヒロイズム(陰)と対をなしている様は見事でした。「ロード・オブ・ザ・リング」の主人公たちは、私たちが心の片隅で渇望しているそんなヒーロー像にピタリと当てはまるのです。
「ハリー・ポッター」との比較で興味深いのは、伝説の巨人トロルと闘うシーンです。両作品(第1作)に登場します。従来のハリウッド映画的に(「ホーム・アローン」のカルキン少年VS悪者のように)痛快に闘ってみせる「ハリー・ポッター」に対して、リングの子らは、まるで学徒出陣の様相を呈している。目的を見出せない戦い、まるでベトナム戦争を描いた「プラトーン」、あるいは「ディア・ハンター」...。
時々は、こんな視点を思い出して映画・ドラマ・アニメ・小説を読み解いてみて下さい。(了)